すごいものを観た 弦巻楽団『ファーンズワース・インヴェンション』

すごいものを観た。

2時間絶え間なくセリフが交わされ、膨大な量の情報があふれ出す。だれがテレビを発明したのか、フィロ・ファーンズワースとデイヴィッド・サーノフの対立を軸に、アメリカ現代史、科学、文化、経済、メディア、そしてそこに生きる人間たちが描かれていく。

1回観ただけでは到底理解が追いつかない。情報の洪水のなかで、そこから浮かびあがってくるものをつかみ取るしかない。

脚本はアーロン・ソーキン。現代を代表する脚本家のひとりで、映画『ア・フュー・グッドメン』『ソーシャル・ネットワーク』などで知られている。ソーキン脚本の特徴は膨大なセリフ量にあるが、この舞台はセリフに加え情報の量もすさまじい。

電気、化学、数学、工学……テレビは現代科学の結晶だ。さらに開発費をめぐる経済、金融、そこで起こる世界恐慌。真の開発者はだれなのかという特許をめぐる法律、法廷闘争。そしてラジオ誕生によって加速度的にふくれあがっていくメディアと広告。

それらはつまりアメリカだ。現代アメリカが、膨大な量のセリフと情報によって浮かびあがってくる。ソーキンはこの脚本で、アメリカそのものを描こうとしている。

アメリカとは発展である。アメリカとは闘争である。アメリカとはチャンスであり成功であり失敗であり、とにかく進んでいくものなのだという意志。あるいは「意志」そのものなのがアメリカなのだと。

その象徴としての「テレビ」だ。世界を映し、世界を変える道具。あるいは「世界」そのもの。かつてTalking Headsは「Television Man」でこう歌った。

「世界が私のリビングルームにあふれだす」

弦巻楽団『ファーンズワース・インベンション』。だれがテレビを発明したのか、その対立だとはじめに書いた。それは表面的なストーリーだ。たしかにふたりはテレビ開発で争う。だけどファーンズワースはテレビを発明したことによる「利益」よりも、テレビができることによる「発展」を望んでいる。

「発明者の称号」を得るよりも「発明することでの発展」を。ファーンズワースがその「発展」でなにを得ようとしているのか、「発展」が彼の心のなかのなにと結びついているのか、それらが明確になるとこの舞台はもっとわかりやすくなったのだろう。

しかしソーキン脚本で言うと本作とおなじ2007年に公開された映画『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』の主人公がまさにそうで、そこがわからない人物だった(ただし映画はおもしろい)。いっぽう3年後の『ソーシャル・ネットワーク』では史実をゆがめてまで主人公に「動機」を与えてわかりやすくしている。

ファーンズワースはなぜテレビを作りたかったのだろう。理由などないのだろうか。なんであれ先へ進み、チャレンジがあり、成功があり、失敗があり、それでも発展の道へと突き進んでいく。すなわちアメリカ。それがファーンズワースだったのだろうか。

いっぽう対立するサーノフはロシアから亡命したユダヤ人で、幼少時に家を焼かれた経験がラストにリフレインすることでこの闘争が正当防衛であるかのように語られる。そういった意味で彼の言動には「動機」がある。

ファーンズワースがアメリカならサーノフはヨーロッパだ。新と旧の対決。サーノフは無線を発展させラジオにし、ファーンズワースはテレビを発明する。新しいメディアの誕生を巡る物語。

この公演の客入れで、バグルスの「ラジオスターの悲劇」が流れていた。テレビ(ビデオ)の発展によりラジオが追いやられる、その悲哀。だけどいまやテレビすらオールドメディア化した(!)。つぎの時代はインターネットでそれもまたいつかつぎのメディアに追いやられる。

だからつねに過程なのだ。「発明」され「発展」してその「つぎ」がまたくる。その繰り返し。本作でもそれが描かれている。膨大な情報とセリフで浮かびあがるのはアメリカ(「人類」に置き換えてもいい)。発展とその先を巡る物語。ソーキン作品のなかでもここまでの「意欲作」、話を広げた「超大作」はほかにない。

 

つぎにこの公演自体の感想を。

圧巻の舞台だった。これほどの情報量、熱量を2時間にまとめられるとは。役者、演出、スタッフ(そして脚本、翻訳者)の力を見た。

観劇中、いくつかの作品が頭をよぎった。おなじくアメリカ近現代史を描いた大傑作、ナショナル・シアター・ライブの『リーマン・トリロジー』。休憩時間抜くと3時間超だけど、それに比べて本作は2時間。濃度がヤバい。

情報量、セリフ量だけじゃない。パンフレットには21の役柄が書いてある。大勢の人物が行き来して、ドタドタとせわしなく靴音が鳴る。喧噪の時代、狂騒のアメリカが舞台に現れる、その時代が。(靴音や道具の移動音がセリフとかぶるときは残念に思えたが)

3つの巨大な木の枠を使った舞台装置は見事だ(舞台美術:高村由紀子)。枠には意匠がほどこされ、絵画の額のようでもあるし、むかしのテレビ入れ(箱)の枠のようでもある。枠の位置によって舞台が区切られ演技空間が生まれる。あるいは枠の向こうで演じられるものは枠越しに観ることで場所や時間の違いにもなる。

気になったのはファーンズワースの子どもが病気になるところで、それが枠越しに演じられる。メインの物語とは別の場所、別の時間というルールに則ればそうなのだろう。しかしファーンズワースがしだいに狂気に陥っていくところがもっと強くていいと思ったので、そこが枠越しではなく演じられたらどうなっていただろうかとは思う(それだけで解決できるものではないが)。

もうひとつしっくりこなかったのは、本当は史実と違うということを劇で言ってしまう意味だ。脚本の狙いはなんだったのだろう。この物語は、ファーンズワースとサーノフが交互におたがいの人生の語り手となる面白い構造だ。テレビの開発を巡る争いと、語りの主導権争いに勝ったサーノフということだったのだろうか。だからサーノフは自由に史実と違う語りができる、ということなのか、ここは読み取れなかった。

さて役者について。ファーンズワース・遠藤洋平(ヒュー妄)、サーノフ・村上義典(ディリバリー・ダイバーズ)はすがすがしかった。にごりがない。膨大な情報量におぼれる観客が助けを求めてつかむのがこのふたりで、物語の軸をたしかに作ってくれた。このふたりでよかった。

そして特筆すべきは深浦佑太(ディリバリー・ダイバーズ)だ。出資者のクロッカーなど複数役を演じたが、彼が舞台に現れ言葉を発した瞬間に場が変わる。それまで発散されていた舞台が急速に濃縮される。ど、どうやってるんだ? というくらい、まるで魔法だ(ゆっくりしゃべる程度のことじゃ到底成し遂げられない)。猛烈に突き進んでいく舞台のなかで僕は深浦出演シーンを区切れ目としてとらえ、そこで物語のリズムをとっていた。

ほかにも、井上崇之(→GyozaNoKai→)にはコミカルさがあって場面を面白くしていたし、本作内で最も物語的な要素をになう高校教師(ほか)を演じた町田誠也(劇団words of hearts)はわずかな登場シーンのなかでも存在の説得力を発揮する。

全員の名前を記すことはできないけれど、『ファーンズワース・インヴェンション』を演じられる役者がそろうまで何年も待ったというだけであって、すべての役者がその期待にこたえていた。

2024年11月。札幌でアーロン・ソーキンの脚本作を、立体化されたすばらしい舞台として観られたことは幸せだった。

 

追記。

公演にさきがけて、弦巻楽団のネットラジオ「楽団ラジオ」で代表・演出の弦巻啓太氏と筆者でアーロン・ソーキンの魅力について話した。ネットで聞けるのでよければどうぞ。

https://note.com/tsurumakigakudan/n/n9e93dad52601

また、それとは別に、個人的にアーロン・ソーキンの半生と全作品解説を「アーロン・ソーキン伝」としてnoteにまとめたのでこちらもどうぞ。

https://note.com/opqrstu20231222/n/n5c820645082d

text by 島崎町

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